世は江戸時代。

 漆黒の髪を後ろで束ねた道太郎は朝早くから土手を走っていた。土手は昨晩の雨によってより一層滑りやすくなっていたが、まるで乾いた土を走っているように平然と走っている。
 彼は道場へ通う一門下生で身分も低いが、近々この辺り一帯を領地とする領主が用心棒として雇おうと話がされていた。
 しかし本人は乗り気でない。
 なぜかというと、彼は侍になりたかったのだ。尊敬できる主君に仕え、戦で戦いたかった。この辺りは戦もなければ事件もない。
「道太郎」
 土手を抜け、軒を並べる通りの角から常磐色の男が現れた。
「道太郎!」
「あっ…十郎か」
 彼の名前は十郎。道太郎と同じ道場に通う、同じくらいの年の男だ。
「おいおい、なんだぁ?! しけた面して」
「……そうか?」
「もっとシャキッとせい! それにアレだ、一緒に道場行こうぜ」
「あぁ」
 道太郎の背中を激しく叩きながら、どこか困った笑顔をしたが、十郎はいつも明るく人当たりのよい男で、道太郎にとって無二の友である。
「今日こそ勝つからな。負けねぇぞ!」
 そして、良きライバルでもある。
「俺だって、今日も勝つさ」
 道太郎は小さくも力強く言った。
「言ったなぁ!」
 二人は目を合わせ、頷いた。


 梅の花がぽつぽつと咲いているのを見上げ、もうそろそろ着くだろうと思いながら横を通り過ぎようとすると、一人の少女とぶつかった。漆黒の着物を着たその少女はこちらをチラと見ただけで走り去ってしまった。
「お、おい! …大丈夫だったの、か……?」
 二人は歩みを止め、道太郎は少女が走っていった先を、十郎は同じように見ようとしたが、さっき道太郎に少女がぶつかった跡に釘付けになった。
 風が吹き、梅の花びらがひらり舞い落ちた。それを見た十郎は血の気が引いた。
「落ち着け、焦るな、気をしっかり持てよ」
 まるで自分に言い聞かせるように言い、道太郎の顔と少女がぶつかった跡を交互に見た。
「道場まで歩けるか」
「え…あ、あぁ」
 十郎は目を見開き、汗を流しながら道太郎の片腕を肩にまわした。
「なっ、何するんだ」
 道太郎は焦った。
「しゃべるな、歩くぞ」
 理由を聞こうにも抵抗しようも、ゆっくりゆっくりと歩く十郎に結局は合わせ、冗談に見えない十郎の顔をじっと見た。
 二人が通った跡には、梅の花びらがぽつぽつと落ちている。


 平屋が並ぶこの通りに、目を凝らさねば見えぬくらい焼けた表札に書かれた文字には『田村』と書かれている。その平屋にしては立派な門が構えていたが十郎はそれを蹴破り踏み荒らし、道太郎を背負って入っていった。
「師匠、早く手当ての用意をしてくれ!」
 また戸を蹴破り、一段高くなっている床にそっと道太郎を寝かせた。
「なんだ、また喧嘩かぁ?」
 頭をかきながら二人が通う道場の師範、田村正武は、日常茶飯事である喧嘩のために磨かれた技術と道具と自信を持って、二人のもとへ向かった。
「し、師匠! 道太郎が」
「道太郎がぁ? 珍しいな。さぁ、どれどれ傷を見せないさ、い……」
 傷を見た瞬間、田村は目を見開けて黙り込んでしまった。
「師匠?」
 我に返り、額に手を当て、目を瞑った後、もう一度現実を見た。
「道太郎、何か感じるか? 特に、左脇腹なんかを」
 状況がつかめない道太郎にとって、十郎の行動、そして田村の表情が理解できない。
「…言われてみれば……少し熱い、です」
「それだけ、か?」
 道太郎は頷いた。
 十郎と田村は見合わせる。十郎は汗が滝のように出、動揺していたが、やるしかない。
「…道太郎。気、引き締めろ」
「は?」
 そう言った瞬間、道太郎の左脇腹から何かが引き抜かれた。その勢いに道太郎の体が動く。びちゃ、と滑った液体が背中に張り付いているのを感じ、手をあてた。
―――後悔した。
 見た途端、息が絶え絶えになり、額からは汗が噴き出した。激しく咳き込み思わず口に手をあてたが、その所為で背中に張り付いていた液体が口の中に入り込む。
 あの独特な味が口の中で暴れだす。あの、有色の液体が道太郎の頬に色を差す。
 急いで治療しようにも四肢が痙攣し始め思うようにいかない。
「なんなんだ、こんなのは見たことが無い。それにこの刀ッ!」
 田村が持っているのは先程道太郎の左脇腹に柄だけを残して刺さっていた刀であった。引き抜いてみると思ったより長く、貫通していなかったのが奇跡であったが、
「道太郎、道太郎!」
 やがて痙攣が治まったが、道太郎の脇腹からは絶えず流れ続け、目の光は霞んでいった。





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